イ・ドンウォン 地球村教会 元老牧師、地球村ミニストリーネットワーク代表
1965年9月末、私は火曜日の午前10時頃に始まった「ライフクラブ」(Life Club)に参加しました。それは、英語で賛美し、英語で聖書を学ぶ集まりです。おもに宣教師たちが講師となって教え、英語が流暢な韓国人の教職者が賛美と討論を導きました。英語と韓国語を併用するため、英語が流暢な人とそうでない人が混ざっていました。
キリスト教とは何か その日の講師は、カナダから来たYFC宣教師ジェームス・ウィルソンでした。講義のテーマは「律法か、恵みか」(Law or Grace)でした。その日の聖書箇所は、ガラテヤ人への手紙2章21節でした。「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」 教会に出席し始めて2年しか経っていなかった私には、よくわからない聖句でした。それまで私が理解していたキリスト教は、善良に生きようと努力すれば、その善行によって救いの道に入るという常識的な宗教でした。しかし、その日のみことばは、私の常識を覆す衝撃的なみことばでした。もし私が善行によって救われるなら、キリストの死は無になるというのです。 説明を聞いていると、私がそれまで理解していたすべての宗教は、結局は律法の道と違いがありませんでした。律法は「しなさい」と「してはならない」で構成された戒めの集合体でした。すべての道徳、倫理、宗教でさえ、この律法のカテゴリーの中に存在していました。しかし、聖書は、しなさいというみことばのとおりに行い、してはいけないと命じられていることを行わないことで義と認められるわけではないと語っています。救いが努力や行為で得られるなら、キリストは無駄死にしたのだと宣言しています。だとしたら、キリスト教は、道徳でもなく、宗教でもないのでしょうか。
新しいいのちを得る福音の確信 しかし、その日私の心に迫ってきた真理は、最善の努力にもかかわらず、私は律法で行いなさいと命じていることをすべて行うことができず、してはいけないというみことばも完全に守れない罪人だという自己発見でした。聖書は隣人を憎んだだけでも殺人を犯したのであり、淫乱な心を持っただけでも姦淫したのだと教えます。つまり、私は律法をすでに破った罪人でしかないのです。私こそ、神の目には殺人を犯した罪人であり、姦淫を犯した罪人でした。私は律法を守る人になる前に、すでに律法を破った罪人でした。そんな私が律法を守って義とされるはずがありません。 その瞬間、1年半ほど教会周辺をうろついていたような私に、福音が真の福音として迫ってきました。私が自分自身を救うことができないゆえに、律法を守って義とされることができないゆえに、神の御子イエスが人間となってこの地に来られたということが理解できました。神は、自分を救うことができない私のために救い主イエス・キリストをこの地に遣わし、私の代わりにイエスが十字架で血を流して死なれました。イエスの死が福音でした。そして、イエスの復活が新しいいのち、新しい希望の道でした。私は、われ知らず絶叫していました。「いま信じます! イエス・キリストを私の救い主として、主として信じます!」と。その日こそ、私が新しく生まれ、新しいいのちを得て、新しい人生の道を歩むことになった最初の日でした。そして、私が牧会を始めてからもずっと、ガラテヤ人への手紙2章21節は、牧会の基礎を築く大切なみことばとなりました。 どれほど多くの人が「名ばかりのクリスチャン」として教会に来ているかわかりません。悔い改めの経験と確信がないまま、自分がクリスチャンになったと錯覚する人がいかに多いかと思うと、残念でなりません。そのため、私は教会に来ているすべての人が「新生クラス」を通して福音の確信を持てるように手助けすることを、何よりも重視してきました。 今日、キリスト教会は、さまざまな問題に直面し、あちこちで数多くの代案が提示されています。しかし、私が考えるキリスト教会の問題の核心は、悔い改めを経験できず、キリスト教を道徳レベルで理解する、名ばかりのクリスチャンがたくさんいることです。新しいいのちを持たないまま、新しい人生を真似ようとしては無気力に挫折する姿こそ、私たちが直面すべき問題第一号です。 パウロのもとに来られ、取るに足りない私のもとに来られた恵みの主が、福音によって再びキリスト教会を立ち上がらせてくださるよう祈ります。無にできない恵みの福音、その恵みの場所である十字架だけが、すべての問題の解答であり、永遠の光です。
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